伊勢湾海運株式会社

ISEWAN PLAZAいせわん・ぷらざ
VOL.202009/10/02

創立60周年に寄せて

常勤顧問 松本 優幸

祝賀会での社長の挨拶
祝賀会での社長の挨拶

昭和四十一年四月一日が私の入社日でした。その当時の記憶は、今以て細かなところまで鮮明に記憶にあります。配属先は現在の「新日本製鐵事業部」。当時は六人位のこぢんまりとした事務所でした。所内道路も岸壁も製鉄所自体が建設途上な時代でした。先輩に恵まれ、毎日が個人指導による現場教育実習が続きました。思い返してみても懐かしい想い出以上に、短期間ではあったものの社会人としての教育の原点はそこにあったと現在では感謝しております。その中に施設も整い始め、折からの経済成長を追い風として、日本国中が好景気に沸きかえる時代の到来となったわけです。

五年後に作業部に転勤になり、在来船時代の最終期を体験することになりました。当然、既に時代はコンテナ化に向かって走り始めており、港の構造がどのように変化してゆくのか、予想が掴めず、不安は業界を覆っておりました。

昭和五十三年六月、独プラハト社に出向を命ぜられ、サウジアラビアに駐在となりました。三四歳のときでした。I重工のセメント工場建設の資器材四十六万トンの輸送でしたが、大過なく終了し帰国。三十年前のダンマンでの自炊生活の二年間はあらゆる意味で鍛えられ、病や事故にも遭遇せず帰国したときは感激したものでした。帰国して三週間を過ぎたころ。バグダット行きの内示を受けたときは青天の霹靂。三ヶ月の予定が、足掛け六年に及ぶとは、実に予想外な展開となってしまいました。原因はイラン・イラク戦争の勃発でした。

その後は、イラク共和国の建設ラッシュの途上での開戦です。開戦と同時にバスラ港は機雷封鎖となり、代替港としてクエート港経由のルートを開拓しましたが、すぐに沖待ちの発生となってしまい、次はアカバ港の利用と駆けずり回り、一時期は三拠点を構えてのプロジェクトとなってしまいました。先輩諸氏の協力を仰ぎ、延べにして三十名の社員が行き来をし、一人の犠牲も出さずにこのイラク業務を終えることができましたが、これも、全くの幸運以外の何ものでもなかったと今でも思っております。電話回線はあるものの通じず、ファックスもまだない時代でした。北京事務所開設の発端はこの地にあったことを申し添えておきます。

祝賀会の様子
祝賀会の様子

某中国の国営企業は、只命ぜられるがままに来て、右往左往しているところで偶然に我々と遭遇したことが切っ掛けとなり、お付き合いが始まった分けです。沖縄に行くにも査証を必要としている時代に育っており、海外への憧れは相当なものがありました。フオーマン生活十一年は外国を身近に引き寄せることが可能でした。「創らない夢は実らない」の夢が、中近東で実ったわけです。その間に多くのお客に恵まれも、多くの友人も得ることができ、付き合いは現在に至っており、一言ではとても説明のしようがないような勉強させられた期間でした。

入社時点では社員総数が二百人位程の会社でした。現在ではこのような企業へと変化を遂げております。それはあくまでも、先輩諸氏によるご苦労の積み重ねと、止まることのない不断の努力の賜物です。時代は大きく変革の時代を迎えております。自らに更なる試練を課し、時代の変革に対応できるように備えなければなりません。題目とはかけ離れた内容になってしまいましたが、我が社の近代史の一時期に、あの騒乱のイラクを中心に、多くの社員が携わったプロジェクトが存在したということです。

初めて接した回教なるものの存在。苛酷な自然環境と貧弱な食べ物にも文句を言わず、熟睡するだけが楽しみのような毎日でした。そのような体験の持ち主はまだまだ各職場で頑張っております。逞しい限りです。

時節は大きな試練の中にありますが、皆で知恵を出し合い力を結集しさえすればこの難局は乗り越えられると確信しております。

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