伊勢湾海運株式会社

ISEWAN PLAZAいせわん・ぷらざ
VOL.092003/10/21

さらば アンローダークレーン!

東名港事業所(E-3岸壁)のアンローダー解体に想う

豊橋支店 支店長

豊橋支店 支店長

小生が東名港事業所に配属になったのは昭和52年4月でした。その頃のアンローダークレーンの活躍はめざましいもので、当時は原料課(現営業二課)扱いの某製鉄会社向けの鉄鉱石を一船当り1万~2万トンの水揚げを行いフル稼働していました。

その後、農水産課(現営業一課)扱いの飼料関係荷扱いが増加し昭和54年に平床サイロが完成した事により東名港事業所は埠頭飼料ターミナルとしての位置づけが明確になりアンローダーは中国より入ってくる大豆粕などの水揚げ荷役に活躍の場を移しました。先端のクラブを取り替えることにより多種多様なバラ物貨物に対応できる万能荷役機械として幅広く利用され、また酷使されました。

小生は平成2年に13年間の事業所勤務から本社、農水産課勤務を命ぜられ今度は営業の立場でいろいろ貨物に対処できるアンローダーの恩恵を改めて実感することが出来ました。 近年は荷役形態の変化(バラ物のコンテナ扱い増加)に伴いアンローダーの稼働は全盛期に比べ低下していましたが、平成14年4月より、庄内川掘削土砂を中部新国際空港に海上運搬する仕事を国土交通省より受注し、アンローダーを使用して、陸上から海上への積替え作業を行っていました。1日約2700トンの積替え作業でまさしく120%のフル稼働となりました。

土砂積替え事業の道半ばで、今回の不具合が発生し結果的に解体撤去という引導を渡す結果となり、個人的にも思い出がたくさん有り再生を願っていたのですが、残念ながら最後となる旨を本年4月より支店長を命ぜられた豊橋にて聞き、感慨ひとしおでした。この偉大なアンローダーの40有余年の歴史の中で十数年程度の係りで回想などおこがましいのですが残念ながら最終的に解体までに陥れたのは小生が持ち込んだ事業の精ではないかと、多少の責任も感じつつ回想いたしました。

小生が東名港事業所に配属になったのは昭和52年4月でした。その頃のアンローダークレーンの活躍はめざましいもので、当時は原料課(現営業二課)扱いの某製鉄会社向けの鉄鉱石を一船当り1万~2万トンの水揚げを行いフル稼働していました。

その後、農水産課(現営業一課)扱いの飼料関係荷扱いが増加し昭和54年に平床サイロが完成した事により東名港事業所は埠頭飼料ターミナルとしての位置づけが明確になりアンローダーは中国より入ってくる大豆粕などの水揚げ荷役に活躍の場を移しました。先端のクラブを取り替えることにより多種多様なバラ物貨物に対応できる万能荷役機械として幅広く利用され、また酷使されました。

小生は平成2年に13年間の事業所勤務から本社、農水産課勤務を命ぜられ今度は営業の立場でいろいろ貨物に対処できるアンローダーの恩恵を改めて実感することが出来ました。 近年は荷役形態の変化(バラ物のコンテナ扱い増加)に伴いアンローダーの稼働は全盛期に比べ低下していましたが、平成14年4月より、庄内川掘削土砂を中部新国際空港に海上運搬する仕事を国土交通省より受注し、アンローダーを使用して、陸上から海上への積替え作業を行っていました。1日約2700トンの積替え作業でまさしく120%のフル稼働となりました。

土砂積替え事業の道半ばで、今回の不具合が発生し結果的に解体撤去という引導を渡す結果となり、個人的にも思い出がたくさん有り再生を願っていたのですが、残念ながら最後となる旨を本年4月より支店長を命ぜられた豊橋にて聞き、感慨ひとしおでした。この偉大なアンローダーの40有余年の歴史の中で十数年程度の係りで回想などおこがましいのですが残念ながら最終的に解体までに陥れたのは小生が持ち込んだ事業の精ではないかと、多少の責任も感じつつ回想いたしました。

  • アンローダー解体途中の様子アンローダー解体途中の様子
    アンローダー解体途中の様子
  • 解体後の様子…
    解体後の様子…

思い出のアンローダー

起重機

起重機

今年の8月、八号地岸壁の水平引込式クレーン(通称アンローダー又は10トンクレーン)が長年の金属疲労の為、解体されました。先ずはご苦労様でした。長年このクレーンにたずさわってきた私としては、少し淋しい気持ちですが、心の中で拍手を送りました。昭和38年に設置されてから約40年間よくがんばってくれました。

今から23年前に先輩方の後を引き継いで乗務させていただきました。なかなか癖のあるクレーンで、最初はちっとも自分のいうことをきいてくれず、いつも手に汗をかきながら冷や冷やの連続でした。

大型船からの鉄鉱石の水揚げ、24メートルの大型H形鋼のトラック積等々、微調整運転が出来ずに作業員の方たちに大変ご迷惑をお掛けして落ち込んだことが度々ありました。機械の整備や錆びたところのペンキ塗りと一生懸命頑張りました。

そのうち段々とコントロール出来るようになり、荷役が終わった後で作業員の方たちが「お疲れさん」と笑顔で手を上げてくださった時、思わず私も「ありがとう、お疲れさん」と声を張り上げていました。胸をなでおろしながら家路に着いた後の夜のビールの一杯が大変おいしかった思い出があります。

今は鋼材センターの天井クレーンの整備部署で慣れない仕事に日々奮闘して頑張っています。

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